最近のホームグラウンドは関門・響灘でのオフショア(エサ釣メイン)と渓流でのちょうちん釣り。
小さい頃から親父に連れられて釣りに行っていましたが、中学校で友達とバス釣りを開始。
物を買ってもらえなかった環境だったので、親父が使わなくなった釣具を改造してバス釣りをしていました。
自転車もなかったので、お袋のママチャリで、友達の5段変速自転車に追いつくべく、全力疾走していました。
ルアーロッドがなかったので、親父が使わなくなった投げ竿を2本継ぎにしてリールシートを取り付け、ABUアンバサダーを使い、今でいうテキサスリグを投げていました。
ちなみにABUリールは親父がチヌ釣りに使っていたもので、チヌ釣り初期に広く使われていたリールです。
子供にはハードプラグは高すぎたので、ほとんどがこのリグで釣っていました。
爆釣したのはチョコレートワームという記憶があります。
当然、このリールではまともに投げられることもありませんでした。
それから、掘ってきたドバミミズで釣ったり、ブルーギルを釣って泳がせてバスを釣ったり、ヒブナを買ってきて泳がせてみたりい、潜ってシンカーやフックを拾うなど、いろいろと楽しんで釣りを行っていました。
当時はルアーマンだとか、エサ釣り師だとかという区別はなく、みんな釣れる方法で遊んでいました。
就職してからは忙しくて釣りから少し遠ざかっていましたが、訳あって20代前半ごろから親父と毎週のように堤防や磯釣りに行くようになりました。
磯からのフカセ釣りがメインでしたが、遊漁船を使った電動リールでのウキ釣り、知らない土地へ行って堤防からのフカセ釣りやサビキ釣り、海上釣り堀へ行くなどいろいろな釣りを楽しみました。
その後、仕事が忙しくなったので釣りに行く回数が減り、久しぶりに親父と堤防のテトラから釣りを行った際、親父がテトラから滑って落ちてしまったのを見て、安全な場所以外は行かなくなりました。
親父に怪我はなかったのですが、落ちた原因は外れた小型棒ウキを回収するためでした。
落ちてからもすぐに陸に上がらず取れるまで海水に浸かっている姿を見て、釣り人の強欲や執念など考えさせられるものを感じました。
昭和初期生まれの釣り人の心意気は、それはすごいものがあります。
当時は遊漁船がなかったため漁師にお願いして磯に上がっていたらしいのですが、時化ると数日上がれないので、凪になるのを待つため泊まりがけで行っていたそうです。
その後、釣り雑誌や釣り専門サイトに携わり(雑誌やサイト編集・デザイン・取材・カメラマン・動画制作・メーカーのパッケージやカタログ制作・展示会ブース設計など)、釣り業界の中の人になってしまいました。
メインはデザイナーなのですが、業界ではそこそこのお手伝いを行うことができました。
雑誌は時代の波に飲まれてなくなってしまいましたが、釣りは趣味として継続しています。
今は釣り業界から離れることにしました。
だから、本音だけを言える立場に。
釣りの知識だけは豊富なので、本音で声を配信できる本サイトで、ストレスなく声を上げていければと考えています。
細々と作品を売っています。


